明日は日付が規則正しく次々と訪れて、未来となるが、それが敵わず今では過去を相手に、日にちはランダムになっていても、その層を地質学者のように、発掘して、今まで本人も知らなかった事で過去に遡ることは面白い。

この項目を最近作ったので、1部オピニオンの項目に入っている。

275  マル(2023年7月12日)

271 軍艦島メモ(2023年7月7日)

251 石巻市大川小学校 (3月11日)

 

 

ペス 2/18

 当時はよく赤毛犬がいた。家にいた犬の「マル」(オピニオ)ン275参照に酷似し、近くの歯医者にいた「ペス」と呼ばれていた雄犬である。。雪が30cm以上積もる中、雪の中を走り回っていた。一方「マル」は慎重?で犬小屋で寝ていた。夜間はどの家でも犬は離され

雌は雌のとこへ出向いていた。残念ながら、「マル」はその方面にも疎かった?

 

夏休みの自由研究 2/11

 当時の小学校にこのような言葉があったが否かは不明であるが。私が高学年の夏休みに、私はブランコに乗るるサルの絵を描いた事になり、夏休み宿題帳が張り出された事がある。サルの絵は母が画像を模写したのは直ぐ分る事である。母は晩年模写画を多数残していた。当時私がにんまりできた事はNHKラジオで放送されていた夏休み「子供向けニュース」で、これを要約文章化したことである。

 

予備校 2/9

 大学受験を前に、高校の放課後予備校に通った。水道橋にある「研数」そこで「数Ⅲ」を受けた。金太郎が眼鏡を掛けた様な人が、黒板に丸くなった白墨ではなく,直角にチョークを折りその断面で文字を書くのが気持ち良さそうだった。当時は冷房が無く、夏休みには女子高生も聴講に見え、暑いので、スカートを膝上までまくり上げ、扇子で盛んに風を送る音があり、女子高生の太ももが気になり講習どころでは無かった。男子校生はこれに全く対応出来ていなかった。

 

偉かったよ  2/6

 小学校高学年の時、全校共通テストの算数の結果を母は答案を見て、「偉かったよね」と私を褒めた事があった。私はその時の情景をその時は覚えず晩年に、切り出し送っていたのので、今になって思い出した。母は成績が良ければ、機嫌が良かった。私は高校2年の時、予備校主催の全国模擬テストで、理系関係部門で50番以内に入った事の方が嬉しい。私が理系関係に進むことを決定した。

 

碧空  2/5

 60年前頃、長崎市の電機会社に赴任したとき、人間関係が面倒になり、会社を辞めたいと良く思っていた。ある日、長崎駅前の青空を見上げたとき、このまま最後までやろうとの気持ちが出てきた。未だ見ぬ私の家族が私の背を押してくれた不思議な感じであった。オピニオンの302碧空に繋がる。

横須賀線(70系) 1/31

 日暮里の中学校に通う時、電車の混雑緩和のため、冬期に横須賀線より70系電車1編成が常磐線に回されていた。少し遅刻してもその電車に乗った。当時の横須賀線には東海道線の80系(みかん電車)緑・橙色に対応する木造電車が走っていた。色調は薄く、今ではウクライナの国旗を思い出す。この電車に乗る時は、横須賀へ行く感じがして気分が良かった。

 

柿泥棒 1/28

 小学校低学年時は犯罪でも、悪い意識が無く欲しいものは欲しいとの衝動で、どうどうとやった様だ。当時、少年が飢えていたことも大きいかも。街中に生け垣で囲われた民家があり、中に柿の木があり、秋になると多くの柿がなり、垣根の一部が破れており、そこから庭に入り柿を失敬した。そのまま食べた柿はうまい。2回目に、お姉さんに見つかり「あなたたち、そこで何をしている」と言われ、私は独りではなかったようだ。逃げ足が速く、垣根の破れから外へ走り去り無事?であった。。当時、ヤマグリの渋みを落とし、生のままガリガリ食べていた。奥からお兄さんが出できて、今度は相手が男の成人のためか、全員御用となったヤマグリは泥棒はうまくいかなかった。

 

 1/25

小学生の頃、家の西100mに千葉大学園芸学部の裏門があり、その斜面に30m程、橇で滑るのに適しスロープがあった。手が不器用な私としては珍しく几帳面に180cm程の孟宗竹を2つに割り、先端を火であぶり曲げて滑る橇を作った。5cm程のスペーサーを入れて橇の先に足掛けを作り、馬の手綱のような紐を付け、橇後に座席を設けた。竹より釘の頭が出ないように、ヤスリを丹念にかけ、丁寧に完成させた。斜面には2本の線しかなく、どうやら私だけがそこで滑ったようである。転ばず下まで滑り降りるのはスリルがあった。

 

古墳遺跡 1/22

 小学生の頃、学校の北2kmにある。古墳発掘現場を見学した事がある。当時は遺跡を示すものは現場に何も無く、最近新聞で学校から3km東に墳墓遺跡群の紹介があった

配水塔    1/19

 子供の頃住んだ街の南部、江戸川に沿う丘陵地の真ん中に給水塔(配水塔)があり、農地の中で高さ32mは目立ち、今でも目に浮かぶ。今では土木学会選奨土木遺産になっている。近くに矢切の渡しがある。

三輪車 1/16

   駅前から東に200m程登る坂道があり、上がった所に戦前は陸軍工兵学校があり、戦場の橋や鉄道などのインフラを作る兵隊がいた。その坂道は今では車が盛んに通る。工兵学校は今では公園になっている。戦後間もなくそこは車が通らないので、子供達は自分の三輪車を坂の上に上げ、坂道を下るロードレースを楽しんでいた。子供心に思っていたのは戦後間もない子供の三輪車は品質が悪く、ハンドルと前輪部分が後輪とサドル部分と溶接されているが、そこが直ぐ折れて2つに分かれる事である。

 

スケートリンク 1/13

  冬、山間の谷戸田に陽が入らず数cmも水が凍ったままの場所があった。子供達はスケートシューズが無いので二印の4本の下駄のままで滑った。そこに格好良い大人が2人、スケートシューズを付け軽々と滑っていた。後日、街中のスケートリンクでスケートシューズを付けたが、うまく立てなかった。稲の枯れた切り株もあり、凍った水面は安定していた。ある日、地震があり、ミシミシと氷が歪む音で怖かった。

 

紙芝居  1/12

  毎週、路地に紙芝居屋が来が来ていた。当時は車は皆無で、どの路地でも子供が見られた。ただ見をするため、拍子木を叩く役を務めたが、金を使うお客でなく、ただ見をする背の高い小学生高学年は観客の後ろに桜としていた。背の低い子供達が水飴をお金で買い、お客として優遇されていた。紙芝居の最後にクイズが出るが、当たるとお客はご褒美が貰えた。当時1回の紙芝居で100円程度の収入で貧しかった。

 

カチコンの餌 1/11

 下記12/10のオピニオンのキンカチョウの記事参照。下記の踏切の間近に小鳥屋があった。そこで飼っていたキンカチョウの餌を買っていた。母は間違って「カチコン」の餌を下さいと言ったのは店の人はポカン。それほどカチコンは家族に染みこんでいた。

 

10円玉 1/10  12/1のキンカチョウ書き換えた

 小学生の時のお小遣いは毎日10円玉1枚であった。後で知ったのであるが、S26年度の10円玉は所謂「ギザ10」で、硬貨の周辺はギザギザ模様が施され価値あるものであった。駄菓子屋は2軒あり、店主がおばーさん、当時珍しく赤く爪を染めている若い娘で、後者の店によく行き、早く男の大人にならないかなぁと意味の無いことを思っていた。10円の半分5円は子供としては大金で1ヶ5円の(いも)アメを良く買っていた。後は体に良くない単価1円の食べ物を買っていた。

 

べー駒  1/9

 かなり荒い勝負事である。バケツに雨がっぱを敷いて、その上で鉄製のべー駒を回して対戦し、相手をはじき出したら勝である。多数の場合は「床継」と言って、二者の内一者の駒を下し、新たに別に追加した駒と入れ、次々に戦いを続けるやり方で、持久力の無い駒は1回当たったらすぐ下ろさぬと相手にやられる。止まった駒は「お釜」と称して芯をたたかれ起こされたら負である。相手がふら付いたとき、芯の内側を叩くことで、当った時の相手バイの半径は小さくなり、反発力は弱くなっている。ホームとアーゥエイと2回戦う。勝ったべー駒をズボンのポケットに入れた時の重さの実感が良い。日本で生まれたもので最初はバイ駒と言って貝を回してい由。

 

ビー玉 1/8

 メンコに続き、子供の遊びにビー玉があるが、上品な遊びである。地面に数十cmの星を描き、参加者は数個のビー玉を星の中に置く。そのビー玉を手持ちのビー玉ではじき出す勝負事である。各人が親のビー玉を使う順序は大切で、10m程先に横線を引き、その線を超えないように親ビー玉を投げて線に近い順となる。余り星に近づき過ぎると先手の親ビー玉がいることが多く、自分が狙われ、それを狙って当たると、その玉は死んで取られる。親ビー玉が星の中に止まる時は「眠り」として1回休みとなる。ビー玉はすかして見ると宇宙のようで綺麗である。目の前に親ビー玉を置き星のビー玉が星を狙うが、中々当たらないので苛つく。ポルトガル語のビードロ(ガラス)が語源とある。

 

 メンコ 1/6

 子供の時の遊びにメンコでの「しゃっこみ」「お越し」があった。路地で1枚ごとに対戦し、相手のメンコの下に自分のメンコが入り込んだり、裏返しにしたりすると勝である。路地は凸凹があり、メンコの4隅は手で織り込み、地面との隙間を出来る限り少なくしていた。これではメンコの勝負のやりとりが少ないので、各人100枚以上を1度にかけ、その中で抜き出すカードを事前に1枚決め、N人で100XN枚以上のメンコの集まりから抜き出す遊びで「抜き」と称し、スリルある勝負事であった。カードを抜き出すには厚手のメンコを準備した。机の引き出しに50cm以上のメンコの束が残った。メンコを購入した記憶は無い。

 

掩体壕(えんたいごう) 1/6

 あまり聞き慣れない言葉である。地上の飛行機を敵から守るためのコンクリートの掩いで囲うものである。新聞に解説記事があり、数年前、茂原市にその遺構を見に行った事がある。戦争末期には意味の無いものを考えるものである。燃料が無く、飛び上がれない飛行機は保護する意味は無い。戦後は農家の物置になっていた。実は数十年前、北海道天北線(今は廃線)の飛行場前駅に行ったとき、北海道最北の軍用飛行場跡地でも掩体壕が設けられていた事を知る。

間に合わなかった  1/3

 家は小学校から下記踏切を越え歩いて15分程であった。下記で20分程足止めされて1回、不名誉な経験をした。お腹の調子が悪く、家に着くまでにお漏らしをした。夏で半ズボンから、かなり垂れているのを近所の子供に見つかり、記憶を凍結させていた。処置をした母には手数を掛けた。

 

貨車入れ替え 24/1/2

 今では見られなくなった鉄道貨物列車の行き先別に貨車を入れ替え作業する様子をメモしておく。下記のお召し列車を見た南100mに通学時通る踏切があり、運悪く貨物入れ替え作業に遭遇すると20分程度足止めを食らう。貨車は煙を吐くD51機関車が牽引し、作業員が引き離す貨車に飛び乗ってブレーキホースと連結器を離す。機関車がバックする勢いでその貨車を押し離し、地上作業員がレールのポイントを操作し貨車に飛び乗ってブレーキを掛けて止めて、その方面にいく貨車の集団を作っていく。その間、機関車は踏切を何度も行き来する。その時、機関車は踏切で待っている私た間際で停止するので機関車の発する警笛、蒸気の音が子供達に恐怖を与え、怖かった。

 

お召し列車 12/31

 小学低学年の時、学校脇で全校生徒が線路沿いに国旗を持って列車の通過を待った。列車はガラス窓が天井まであり、昭和天皇の帽子を振る姿が拝見できた。当時は皇族はお召し列車で地方へ行かれていた。

 

小便 12/29

  私は算数が得意であった。小学校高学年の時、担任が良く放課後の算数の応用問題を私に黒板に書かせていた。必ず、T君が「カメちゃん、カメちゃん、お願い教えて」とT君が要領良く回答を書いて先に帰宅していた。誰もが本人の為になっていないと承知していたが、私も強く出られなかった。T君はいつも同じ服装で体の表面から小便の匂いが有り、この匂いを私は快いと思っていた?こんなこと有るのかなあ。

 

貝塚 12/28

 小学生の頃、住んでいた千葉県松戸市の南東部の農耕地には点々と貝塚が残っていた。同級生のS君と大型のシャベルをひいて生き、何度か発掘作業をしたことがある。破損土器の模様、厚さは変化に富んでいた。貝塚の現場は遠くからも貝で白く目立ち、当時の荒れ地に残っていた。余りに多くの土器片があつまったので、それを組み合わすのに根気が必要になり、いつの間にか普通の楽な興味に移り、発掘はすたれた。小学生の思いつきはこの程度。

 

東京タワー 12/25

  東京タワーは1957年春に着工された。当時中学2年で、西日暮里の道灌山にあった開成学園の校舎4Fの窓から現場が確認できた。同年秋には塔脚4本がお膳の脚の様に30m程の高さによく見えた。学校からタワーまで南へ11km、当時はその引いて間の皇居を挟んで30m以上の建物は無く、空気も綺麗であった。東京スカイツリーは高さが東京タワーの倍あっても、その周囲にはそれと肩を並べる建物が乱立しているので、探し出すのは難儀である。

 

ポンポン船    12/24

 1950年代の松戸市側から見た江戸川は葛飾橋に向い大きく右に蛇行し、河川敷は農耕地になっていた。川の下流側を見ると、焼き玉エンジンをつかったポンポン船が砂利を満載しただるま船を牽引して東京方面へ下っていく。球状に広がった空間に気だるい音だけが広がっていた。1度、ポンポン船に乗っった事がある。1970年代に長崎市北部」より大村湾にキス釣りに海上へ出た時である。近くで乗ると音がうるさい。

 

サザエさん 12/21

 4コマ漫画のサザエさんと同年代、同髪型、同素振りをする人が私の小学生3,4年の時の担任であった。5駅向こうの東京都北千住から通っていた。時々、昼食の鯨のベーコンを私に買いに行かせていた。当時はいつでも校庭、校舎に誰もがで自由に出入りできた。夕立で校舎の入口でサザエさんと取り残された事があった。サザエさんは私をあだ名の「カメ」ちゃんと呼び楽しい1時間を過ごした記憶がある。

 

トンボ3種  12/20

 60年ほど前の子供の頃、家の近くで(千葉県)で良く見たトンボは今では見なくなりました。種名はよく分りません。ウチワヤンマがマメ科の野菜支え棒の先端にいつも止まっていました。私たちは尾の先端が丸くなっているので「タイコ」と呼んでいました。上空高くヒラヒラと舞う黒いシルエットのトンボ数頭、ハグロトンボ?遠くで舞うので採った事はありません。もう1種近くの暗い薮で必ず人前に来て、上下に動き飛び去るトンボ、種は全く見当がつきません。私たちは「ケン」と呼んでいました。 

 

ゴミ拾いおじさん  12/20

 遠藤笹窪谷でゴミ拾いおじさんを見なくなりましたが、今は来ていない?

 

棒倒し      12/16

 開成学園の棒倒しがネットにありました。私がいた数十年前の開成学園では高校2年の運動会で恒例としてあり、棒に布やマットを巻いたり、頭にゴーグルを付けたりする安全策が全くありませんでした。。その中で私は攻める側に入り、棒に登った記憶があります。その下の人の上で飛びはねて蹴散らすのは残酷です。棒を支える役は不運で、攻める側に入れば、ラッキーで棒を支える役は今でも最悪のようです。

 

絵を習う              12/13

 生まれた時、中耳炎を患い、戦時中のこともあり、未治療のままで、学校に行っても耳が良く聞こえなかった。そのため、音楽はでたらめであった。習字も朱で丸を貰った事は無く、字が踊っていると笑われた。唯一絵は2,3年習った。写真帳に小学6年の夏休み宿題の絵があった。

 

碓井峠     2023/12/12                    

 小学6年生の時、当時の交通公社が事前にクーポン券で予約する旅行券を発売しだした。長兄の兄に山梨県昇仙峡、長野県熊ノ湯等につれて行って貰った。当時のバスは鼻が出ているボンネットバス全盛で、山道の運転が大変であった。最後に善光寺をお参りし、碓井峠の難所を夜行列車で通り帰って来た。今は長野新幹線になり、碓井峠は公園になっている。当時碓井峠の急勾配を通過するとき,アブト式のラックで、一段ずつ上下するたびに、音と振動があり、怖かった。

碓井峠は現在は公園になっている。24/1/2

 


 

キンカチョウ2023/12/10 1/31書き換え

 小学校低学年の時、家でキンカチョウを飼った事がある。左右の2羽ずつの2番である。左の2羽は店で既に番になっており、雌は良く卵を産み胴回りが太く「タマゴ」と呼ばれていた。雄は威風堂々とし、さえずりが「カチコン、カチコン・・・」と変わった声で聞こえ、私たちはキンカチョウをカチコンと称していた。良く見ると、右の雄は○で示すように、片目が潰され(カチコンにやられた?)、生まれた時から?片脚がない。。右のビッコ(今では禁止の差別用語)の雄も「ジュジュ・・・」と希な濁った声で鳴き、共に個性がある雄であった。通常はキンカチョウは温和の性質と聞くが、この両雄は仲が悪く、よく巣の取り合いの喧嘩をしていた。番が交尾する時は雌の回りで雄がさえずり、雌がOKであると、頭を下げ尾羽を細かに震わせて、それを見て雄は雌の腰に飛び乗る。ビッコはそれがはうまく出来なく相手の雌(カワイ子ちゃん)から馬鹿にされた。子供心に威風堂々としたカチコンが好きでビッコカワイ子ちゃんの雌と番になるのを許しがたい思っていたと気付いて嫌な気分が思い出された。カワイ子ちゃんは遂にカチコンと浮気した。その時、ビッコは浮気したカワイ子ちゃんに猛然と襲いかかり最後まで追尾したのは、小さいながら人の心理と同じと驚愕した。カチコンはビッコの雌を奪った。この後カワイ子ちゃんカチコンの巣で寝泊まりした。

当時の少年はこんな事を興味深く見ていたが人の世界を見ているようで気分が悪い。

ミッキーマウス

 左は生後間もなく、兄に抱かれる筆者である。アメリカと戦争中にも関わらず、肌着ににアメリカ生まれのミッキーマウスが印刷されている。

 

満州では日本本土より反米感情は緩いのかもしれません。

ベンケイガニ、モクズガニ

小学校低学年の時、電車に乗って東京葛飾区の中川へ蟹取りに行った事がある。大量のベンケイガニ、モクズガニが採れたので、急遽、蟹小屋を作ったが,殆どが逃げてしまい、庭中が蟹だらけになった。

 女の都団地

 長崎市北部の大村湾を見下ろす山地を長崎県が開発し「女の都団地」として昭和40年年代に発売され,1974年~1984年まで新婚の時住んだ事がある。冬は大村湾からの風で寒い。航空写真の丸印が住んだ家付近で、南東斜面凹地にみかん畑が一面にあった。青線沿いにバスの便がある。「女の都」には平家の落ち武者伝説がある。   23/12/10